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東海道新幹線が開業したのがここから24年後
この時代で、すでに東京横浜間26分って凄いですね。再生して早々びっくりしました。
最高速度は95キロでしたからほぼ減速せずに走っていたのでしょうね。先日大船→東京で35分という特急の湘南号に乗りましたが、横浜で普通を追い抜きほぼトップスピードで走ったことも驚いています。特急の設定の目的は変われど特別な急行というのは息づいているのでしょうね。
1:41 沼津で機関車が電機から蒸機に交代。
11:35で「当時の呉線について」補足で約30分間隔での高頻度運転の記述がありますが、ガソリンカーキハ41000形(後のキハ04形)やキハ42000形(後のキハ07形)による運行で実現で出来たものです。しかし1940年の11月よりガソリン統制令に伴いガソリンカーによる運行が終了しました。その後も蒸気機関車による高頻度運行で継続されたものの、呉線の輸送需要を補完する形で1942年から運行を始めたのが省営自動車安芸線、のちの国鉄バス安芸線だったのです。(戦後の呉線に関して気動車導入や電化などの近代化は図られたものの、高頻度運転の復活は1980年代に入ってからの話)
国鉄バス安芸線、懐かしいですね。呉本通13丁目(現在の同6丁目)の国鉄バス車庫から5~10分間隔で広島バスセンター行き(一部は仁方、広が起点、一部は岩国錦帯橋、下松方面まで直行)が発車していました。バスにも特急、急行、快速、普通のカテゴリーがあり、バス停の時刻表はピンク、黄色、緑、白とマス目が色分け表示されていたように思います。(幼少時の記憶なので朧気ですが...)
さくら号は国鉄時代、当時の職員にとって憧れの列車、また乗務する者にとって誇り高き列車だったと聞いてます、映画にも出てました渥美清さん主演の「喜劇急行列車」専務車掌を務めてて生真面目でいてずっこけるところは面白かったです、また当時を知るうえで古い沿線風景や長崎駅の三角屋根の駅舎も懐かしいと感じました。
16:30東京発長崎行きさくらが下関に7:00頃に着いたと思う。そう考えるとこの列車は早いと思います。この時代だと最高時速は90㎞くらいですよね、機関士さん一瞬たりとも気を抜けない
水の補給が必須だった蒸気機関車の時代だったからか、主要駅の停車時間が長いですね。今の尼崎駅が神崎駅。神崎川の近くだったから神崎という駅名だったのかな。尼崎市の中心は阪神尼崎駅付近で、国鉄尼崎駅周辺は駅裏にビール工場があったのと、付近にヤンマーのグランドがあったぐらいで、商業施設は無く閑散としてました。数年前に30数年ぶりに行ってみると、マンションが建ち並び、商業施設も出きていて劇的に変わってましたが。
寝台特急「さくら」 東京 → 横浜 → 小田原 → 熱海 → 沼ま → 静岡 → 浜松 → 豊橋 → 名古屋 → 岐阜 → 大垣 → 米原 → 京都 → 大阪→ 三ノ宮 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 糸崎 → 広島 → 麻里布 → 小郡(現 新山口) → 厚狭 → 下関
🌃夜行特急「さくら 下関行」🇯🇵東京🗼→ 🗼横浜 → 小田原⚡️→ 熱海🌊→ 沼津 → 🍊静岡 → 浜松🌲→ 豊橋🚙→ 🐔名古屋🏯→ 岐阜🎽→ 大垣🦪→ 🍚米原⚡️→ 🌲京都 → 🐙大阪 → 🎅三ノ宮🛩️→ ⚡️神戸 → 👸姫路 →🍑岡山🗻→ 🧵糸崎 → 🦪広島🏝️→ ○麻里布 → 小郡 → 🍞厚狭 → 🐡下関 🇯🇵
戦前の櫻号は小田原や大垣、大津等大阪まではコマメに停車していたんですね。後下関発軽井沢行の列車は何気に凄い設定ですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。下関発軽井沢行きなのですが、正しくは2つの列車であったものを、1つの列車であると見間違えておりました。大変申し訳ありませんでした。正しくは、下関(13:00)→大阪(4:54)→米原(7:24)米原(7:30)→金沢(13:07)→直江津(17:50)→軽井沢(23:25)でした。コメントを読ませていただいた後、念のため確認したところ、間違いに気づくことができました。動画作成時は、すごい列車に出会えたなとうれしかったのですが、誤りであったことが判明し、残念な気持ちでもあります。
大垣は関ヶ原越えで補助機関車を付ける為、下りは全て停車してました。
鳥羽発宇野行があったのですか??経由はどこでしょう?
@@お猿さんちんぱん寺 経路的に参宮線〜紀勢東線(当時紀勢本線は全通していなかった)〜関西本線〜草津線or奈良線〜東海道本線〜山陽本線〜宇野線だったのではないかと思います。
櫻は昭和17年11月改正(24時間制、関門トンネル開通)で廃止ではなく第二種急行(第一種急行は特急列車のうち富士・燕・鴎が指定された)に指定されて博多を超えて鹿児島まで運転され、そして特急列車が廃止され急行列車も削減や運転区間短縮をされる中、昭和20年8月15日の終戦の詔勅が出された日、東京下関間を走る日本唯一の急行列車として命脈を保ちました。
現在とは名前が異なる駅、駅名についてに出ていた駅以外では岩淵→富士川神足→長岡京西ノ宮→西宮玉島→新倉敷己斐→西広島宮島→宮島口周防富田→新南陽小郡→新山口長門一ノ宮→新下関乗り換え列車の駅は土岐津→土岐市上井→倉吉(当時は倉吉線の後の打吹が倉吉)出雲今市→出雲市池田→川西池田石見益田→益田門司→門司港(現在の門司は当時は大里)その他現在と異なるところ·戸塚は横須賀線の電車のみ停車(現在の保土ヶ谷、東戸塚と同じ)·豊川鉄道→飯田線·大垣から下り新垂井経由の線は未開業。下りも垂井経由で補機必要。大垣停車は補機連結のため。·中国鉄道→津山線·(推測ですが)上りは瀬野に停車した(瀬野八の補機連結のため)·麻里布-櫛ヶ浜は現在の岩徳線が山陽本線·柳井線→麻里布-柳井-櫛ヶ浜(現在の山陽本線)·宇部鉄道→宇部線
西大寺→東岡山もあるでよ、現在の赤穂線西大寺駅とだいぶ離れてるのに、なぜ西大寺?
瀬野ですがご推察の通り、全ての特急・急行が上りのみ停車となっています。徳山とか福山とか通過する様な特急でも、瀬野八はどうともならなかったんでしょうね。
70年代生まれで、正直国鉄の思い出は少ないですが、このチャンネルに出会って四日市から紀伊勝浦まで急行に乗車したことを思い出しました。亀山で進行方向が変わった?亀山でかすがと平安から切り離されたか、など記憶が曖昧です。BGMと画面がよく合って、懐かしさや切なさを感じさせてくれるチャンネルですね。ありがとうございます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。また、うれしいお言葉ありがとうございます。紀州5号のように、一部、亀山を経由して紀勢本線へと向かう列車もありましたね。当時は亀山駅が乗換駅として現在よりもにぎわっていたことがわかります。
いつもありがとうございます。東京から下関まで19時間かかるものの、当時としては最速の列車、下関から先の連絡は鹿児島方面がこの列車、富士号が朝鮮や長崎へと連絡していたのでしょうね。ある意味役割分担がなされていたものと思います。和食堂車は当時の時刻表の印どおり普段食べているメニューの延長線だったのかもしれませんが、列車内の一つのオアシスとしての機能もあったのかもしれませんね。お弁当や土瓶のお茶も。小田原、熱海、大津には停車するものの深夜の山陽本線では福山や尾道を通過して糸崎だけの停車というのも驚きです。速く行けるのはメリットがある一方で長距離を行くのに長時間停車がなくずっと座りっぱなしで今で言うエコノミークラス症候群がなかったのか気になるところではありますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。現在とは違い、設備も限られる中、それぞれの駅で緩急接続したり、他の線への乗り継ぎも考慮されたりしており、この時代にもスジを引く職人の努力が伝わってきました。意外にも長時間停車がないことに驚きました。乗車するなら是非寝台車で下関へと向かいたいなと思います。
@@tomoyankun さまこの時代でしたら列車に一人はボーイさんがいたことと思います。お客様のお世話、列車からの電報の送付、寝台のセットや解体等々。さらには食堂車も時間制で係の方が車内を回りながら予約を取っていたそうです。戦争で一時中断したものの戦後の国鉄のエース列車のお客様に対するサービスの原点はこの時代に築かれたものと思います。
動画お疲れ様です。富士が国際特急なら櫻は大衆特急と棲み分けがされてました。食堂車マークも和食堂車としてお椀と箸のマークが使われていた筈です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りで、櫻には和食堂車が連結されていました。誕生して数年は3等車主体の編成で、富士とは対照的でしたね。
普通青森ゆきは、後の特急白鳥ですね😸。
駅名が当時のものと言うだけでロマンがありますね。主なものでも鈴川→吉原、岩淵→富士川、中泉→磐田と言ったところでしょうか。そして、御油が後の愛知御津と言うのも面白いですね。御油と言えば名鉄名古屋本線の駅を連想します。名古屋〜岐阜間の駅数は今もこの当時と全く変わっていませんね。
倉敷、福山、徳山 は通過で、 小田原、大垣、米原、大津、神戸、糸崎 は停車。 当時の 街の位置づけがなんとなく分かります。
5:13 にある米原20時46分→福井23時50分の列車ですが、大阪14時08分発というのは正しいでしょうか…?(大阪→米原の所要時間からして)
この列車時刻表見る限り米原始発に見える。 接続列車は大阪18:18~米原20:42着の名古屋行718列車に見える
太平洋戦争後に長崎・佐世保行のさくら号が復活したとき、一時期小田原駅に停車していたのを思い出しました。昭和15年当時にも停車していたのですね。同じ特急列車でも富士は1等車連結、櫻は2・3等車のみ、食堂車もそれぞれ洋定食、和定食と差がありましたね。資料でみたのですが、特急列車名公募で当選した人に、記念品を贈呈していたようです。一体何を贈呈していたのでしょう。興味があります。
「櫻」「富士」ほんと日本らしく特別急行列車に相応しい愛称ですよね。またいつか「富士」が復活して欲しいですね。新幹線以外でw和食堂車ってどんな感じだったのかなぁ?洋食堂車や展望車を連結した「富士」や「燕」も良いけど編成は地味だったかもしれないけど庶民に愛されたのでしょうね。
和食堂車という名前ではありますが、和食だけでなくカレーやステーキやチキンカツなどもあったそうです。
「富士」はリニアで復活でしょうか。
大戸屋とロイホみたいな感じでは?
洋食堂車はフルコース、高級ホテルクラスのメニューだったようです。一等車を連結していましたからそれ相応のものが求められたのでしょう。相当味や素材に気を遣って調理していたのでしょうね。食堂車の他には停車駅で窓越しに駅弁を買うという選択肢も。お茶は土瓶で。今でも中央線の小淵沢駅で売られています。
有名な列車ですが、走っていた時期は短いですね。愛知県三河地方は駅が大幅に増えた気がします。停車駅もいろいろありますね。福山通過で糸崎停車など時代を感じますね。麻里布なる駅(しかも岩国に代わって停車)は初めてみました。
岐阜発から大垣発までの時間が14分。今のしらさぎが9~10分なので、機関車重連の連結作業は手際よく為されていたのでしょう。また当時の美濃赤坂線はガソリン車で旅客を輸送していたかもしれません。
鉄道系RUclipsr「【聖戦】特別急行 櫻ヲ使ヰテ壱拾九時間半カケ下関ニ行ケリ」
用ヰテ が正しいのかな?
関西のあやつらがやりそうな…(笑)
宇野線は1935年に気動車が導入されているらしいですが、1940年でも蒸気機関車が走っていたんですね。
乗り換え列車にある鳥羽発の列車は客車で、当時宇野線は電化されていませんので、おそらく蒸気機関車だったと思います。また当時は電車や気動車の列車でも、列車番号の末尾にMやDはついていなく、客車列車と同様に数字だけでした。そのため列車番号だけでは客車、電車、気動車の判別はできないですね。
石油は戦闘機や艦船に使うことが優先され、鉄道はSLが一般的になっていたのでしょう。この時代の前には国鉄にも都市近郊部にガソリンカー専用の停車駅がありましたが、軒並み休止とされたそうです。
昭和12年に米・英が経済制裁として日本への石油輸出をやめた事から、これ以降、ガソリンカーの運転取りやめが相次ぎ、再び蒸気機関車牽引に戻るパターンが多かったようです。
この時代背景は戦時中ですか
この時代の鉄道事情を知りたい方は是非とも宮脇俊三氏の『時刻表昭和史』を読むのをおすすめしますそれにしても福山尾道三原を通過して糸崎は停車とはやはり糸崎が昔からの運行上の拠点なのを感じます
機関区があるからでしょう。
電化と非電化区間の境界である沼津駅の停車時間はたった4分。この間に電気機関車から蒸気機関車に付け替えていたとは、なかなか手際の良さだったろう。
その後、東京から長崎へ行く寝台特急になった。
この頃既に茅ヶ崎〜平塚間の馬入川鉄橋の上り線と下り線の間に今も残る、関東大震災で崩壊した旧鉄橋の橋桁の礎石は存在した😲
袖師駅があったころなんですね。さくらは個人的に思い入れの深い列車です。
姫路発糸魚川行、名古屋発新潟行の普通列車があったことにびっくり。前者は東海道線で米原へ行き、米原から北陸本線というルート、後者は中央西線で塩尻まで出てそこから松本→長野へ行って信越本線に入るルートだったと思うのですが、こんな長距離列車が運用されていたとは知りませんですた。どんな列車だっただろうと想像したくなりますね。
戦後直ぐに、上郡発青森行もあったそうですよ〜。
@@vfcfha 宮脇俊三先生の『時刻表昭和史』に登場する普通列車「507列車」のことですね。「507」はのちの急行「日本海」の列車番号に引き継がれました。34時間7分もかけて上郡から青森まで乗り通した人いるんでしょうかねぇ。昔の鉄道はロマンありますわ。
これが戦後になって昭和30年代には、北陸本線泊駅発・米原経由・東海道本線島田駅(静岡県)行きとか言う列車も存在します。失礼ながら始発も終着も大都市ではないこの列車、需要は何だったのでしょうね。
米原の普通福井行き115列車ってどこ通ったら大阪から米原まで6時間半もかかるんや?
この列車時刻表見る限り米原始発に見えるんだよなあ。 大阪~米原間は姫路16:23~大阪18:18~米原20:42の名古屋行普通718列車に見える
「さくら」か。これも懐かしい寝台ですよね。小田原にも停車してたのか!これは初めて知りました。鈴川…?今の吉原ですかね???
この時代に小田原に特急が停車していたことに驚いております。拠点都市であるだけでなく大磯あたりに別荘を有しておられた方にも利用されていたのかもしれません。当時と比べて湘南地域も大きく発展していることからサンライズが小田原に停車するとありがたいですが、夢物語なのでしょうね。
@@TSUYOS185 サンライズ…。停車してほしいですよね…。夢物語ですが…。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りで、鈴川駅は現在の吉原駅です。当時の小田原は現在の半分以下の人口でありながら停車駅に選ばれていることは、私も驚きでした。
この時の下関は九州・韓国を結ぶ日本の玄関口として担ってましたからね。東京に行く列車は花形として別格だったんでしょうね。戦前の時刻表が残ってるという事は、満鉄の駅時刻表やあじあ号の時刻表もあったりするんですよね。気になりますね。
栄光の「1レ」ですね。大阪在住のため、やはり関西の鉄道事情には興味があるのですが、関西急電の停車駅の少なさに驚きました。まさに新快速のご先祖さまですね。同じ京都〜下関間の普通列車でも、山陽本線経由(14時間26分)と呉線経由(24時間47分)で所要時間が全然違うんですね。この差はいったい…?鳥羽発宇野行きなんて列車があったんですね。どういう需要があったのか、非常に興味深い列車です。
ともやんさまの先日の上野発の列車の動画にもありましたが、普通列車でもそこそこ速い列車(関東では準急。当時は料金不要。関西では快速度というもの)が設定されていました。山陽本線の前者はその一つだったのかもしれません。さらに宇野から鳥羽はお伊勢さんにお参りする方のための列車であるだけでなく京阪神から鳥羽へは参宮急行(今の近鉄)の電車と競合していたこともあり速い列車として設定されていたようです。さらに当時の列車は旅客だけでなく荷物や新聞や郵便を運搬する役割も有していました。そうした列車は各駅に停まっていく上に大きな駅では長時間停車するので時間の差が生じていたものと思います。
@@TSUYOS185 さん実に詳細なご説明、ありがとうございます。なるほど、同じ普通列車でも速いものからそうでないものまで、いろいろあったんですね。そういえば、当時は伊勢神宮への遥拝を一般庶民にも求められていたのを思い出しました。国策としても伊勢神宮を重要視していたゆえに、このような列車が存在したのかもしれませんね。おそらく各地から伊勢に向かう列車があったのでしょうね。JR鳥羽駅は、今では見る影もなくなりましたが、長編成に対応した長いホームが往時の賑わいをしのんでいるように感じます。
今走ってたら停車駅はどうなってたかな🤔
この時は共和駅は武豊線直通列車のみ停車、この年の11月に営業休止。笠寺駅はまだ未開業。新垂井線も未開業。岩国〜櫛ヶ浜間は岩徳線経由。関門海底隧道未開通と時代を感じます。
米原発軽井沢行き普通列車って、すげえ…今だとありえない長距離の普通列車運用があるのがロマンある
昔走ってたJR西のシュプール号みたいですね。
神崎…?どこよ?って一瞬思ったけど尼崎駅は昔、神崎駅って言ってたのか…相生駅も那波駅になってる
尼崎駅は実在していて、実は福知山線の起点駅でありのちに尼崎港に改称され神崎が尼崎になりました
特急さくら号戦前 東京〜下関戦後 東京〜長崎・佐世保新幹線 新大阪〜鹿児島中央伝統のある名車で日本を代表する特急列車で絶大な人気を誇った
こうして戦前に運行された特急櫻が新幹線のさくら号として運行しているのは感慨深いものですね
はやぶさもそうですしね…もし西九州新幹線が全線繋がったら、今はかもめしかない種別も「あかつき」とか増えたりするんですかね~。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。歴史を知ると、現在の列車を見た時に込み上げる感覚が変わりますね。
尼崎も神崎だったんですね、麻里布なんてのもカッコいい名前だったのに。父の故郷が五島だったので、72年当時たしか16:30発?のさくらに東京長崎まで3ねん連続で乗ったのを憶えてます、いま考えると貴重な体験でした。
尼崎港線の尼崎駅を内部用語でドテカンと呼ぶのはこのためだそうです。土手の上の神崎駅。
沼津発の御殿場線はすべて東京行きだったんですね。名古屋発新潟行き…鈍行だけど行き先からして急行「赤倉」の遠いご先祖だろうか?米原駅の急行青森行・急行上野行きは多分特急「白鳥」の遠いご先祖ですね。まだこの頃は伊勢神宮など神社への参拝旅行は奨励されていた時代であるので、宇野行きに鳥羽始発があるのも納得です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。国鉄時代につながっていく列車が多くあり、いろいろと想像してしまいますね。調べてみましたら、参拝旅行という名目で、通常の観光を行っている例も少なくなかったようですね。旅行のニーズは当時も多かったことがわかりますね。
宇野線「801ㇾ」の始発駅「鳥羽」って参宮線の「鳥羽」なのかな?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りで、その鳥羽駅発です。すごいですよね。
東京横浜26分!とか東海道線は早いけど山陽本線に入ってから速度が落ちているように見える
電化していないですから。
時代が感じられて👍
共和も笠寺もまだ無かったんだな
金山も尾頭橋もね。
この頃だったら座席車メインだったように思われますね。もちろん乗り継ぎの夜行普通列車も座席車だけだったように思われます。特急だったらもっとも高嶺(値)の花で、普通列車に乗っていた人が多かったのではなかったでしょうか...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。木造客車も、まだまだ活躍している時代ですね。列車の本数が少ない中、各列車は混雑していたのだろうかと想像します。
まさか、小田原停車があったとは。
さくらとは別モンかな?
戦前の特別急行列車の愛称はすべて漢字でした。富士、櫻、燕、鷗の4種類しかありませんでした。
この時代は下関から朝鮮行きのフェリーに乗ってそこから満州方面へ旅行とかも出来たんだろうな
福山、尾道、三原通過して糸崎停車。盛者必衰がすごい。
深夜帯でしたので都市の規模というより運行上の拠点として糸崎だけ停車していたのでしょうね。そこで機関士の方たちが交代していたようです。
「昔の特急は停車駅が少ない」って言うけど平成のブルートレインより停車駅多いのは意外。5:10 米原9時47分発の上野行きは確か池田(福知山線川西池田)始発だったはず。史上有数の珍経路列車です。
下関とかへ行く長距離の「櫻」「富士」は東海道本線内が現在の「こだま」タイプですが、別途東京発神戸行きの「燕」「鴎」があって、こちらは若干「のぞみ」タイプの停車駅になってます。
池田6:28発となっていますね。 池田発時点では普通412列車で大阪で普通604列車に変わっているようです
日本の鉄道は新幹線の高速化やリニアに固執しすぎて風情がなくなった。だからといって露骨にリニア建設を妨害する川勝平太静岡県知事の言動や態度はポアに値するが。
東海道新幹線が開業したのがここから24年後
この時代で、すでに東京横浜間26分って凄いですね。再生して早々びっくりしました。
最高速度は95キロでしたからほぼ減速せずに走っていたのでしょうね。
先日大船→東京で35分という特急の湘南号に乗りましたが、横浜で普通を追い抜きほぼトップスピードで走ったことも驚いています。特急の設定の目的は変われど特別な急行というのは息づいているのでしょうね。
1:41 沼津で機関車が電機から蒸機に交代。
11:35で「当時の呉線について」補足で約30分間隔での高頻度運転の記述がありますが、ガソリンカーキハ41000形(後のキハ04形)やキハ42000形(後のキハ07形)による運行で実現で出来たものです。しかし1940年の11月よりガソリン統制令に伴いガソリンカーによる運行が終了しました。その後も蒸気機関車による高頻度運行で継続されたものの、呉線の輸送需要を補完する形で1942年から運行を始めたのが省営自動車安芸線、のちの国鉄バス安芸線だったのです。(戦後の呉線に関して気動車導入や電化などの近代化は図られたものの、高頻度運転の復活は1980年代に入ってからの話)
国鉄バス安芸線、懐かしいですね。
呉本通13丁目(現在の同6丁目)の国鉄バス車庫から5~10分間隔で広島バスセンター行き(一部は仁方、広が起点、一部は岩国錦帯橋、下松方面まで直行)が発車していました。
バスにも特急、急行、快速、普通のカテゴリーがあり、バス停の時刻表はピンク、黄色、緑、白とマス目が色分け表示されていたように思います。(幼少時の記憶なので朧気ですが...)
さくら号は国鉄時代、当時の職員にとって憧れの列車、また乗務する者にとって誇り高き列車だったと聞いてます、映画にも出てました渥美清さん主演の「喜劇急行列車」専務車掌を務めてて生真面目でいてずっこけるところは面白かったです、また当時を知るうえで古い沿線風景や長崎駅の三角屋根の駅舎も懐かしいと感じました。
16:30東京発長崎行きさくらが下関に7:00頃に着いたと思う。そう考えるとこの列車は早いと思います。この時代だと最高時速は90㎞くらいですよね、機関士さん一瞬たりとも気を抜けない
水の補給が必須だった蒸気機関車の時代だったからか、主要駅の停車時間が長いですね。
今の尼崎駅が神崎駅。
神崎川の近くだったから神崎という駅名だったのかな。
尼崎市の中心は阪神尼崎駅付近で、国鉄尼崎駅周辺は駅裏にビール工場があったのと、付近にヤンマーのグランドがあったぐらいで、商業施設は無く閑散としてました。
数年前に30数年ぶりに行ってみると、マンションが建ち並び、商業施設も出きていて劇的に変わってましたが。
寝台特急「さくら」 東京 → 横浜 → 小田原 → 熱海 → 沼ま → 静岡 → 浜松 → 豊橋 → 名古屋 → 岐阜 → 大垣 → 米原 → 京都 → 大阪→ 三ノ宮 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 糸崎 → 広島 → 麻里布 → 小郡(現 新山口) → 厚狭 → 下関
🌃夜行特急「さくら 下関行」🇯🇵東京🗼→ 🗼横浜 → 小田原⚡️→ 熱海🌊→ 沼津 → 🍊静岡 → 浜松🌲→ 豊橋🚙→ 🐔名古屋🏯→ 岐阜🎽→ 大垣🦪→ 🍚米原⚡️→ 🌲京都 → 🐙大阪 → 🎅三ノ宮🛩️→ ⚡️神戸 → 👸姫路 →🍑岡山🗻→ 🧵糸崎 → 🦪広島🏝️→ ○麻里布 → 小郡 → 🍞厚狭 → 🐡下関 🇯🇵
戦前の櫻号は小田原や大垣、大津等大阪まではコマメに停車していたんですね。後下関発軽井沢行の列車は何気に凄い設定ですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
下関発軽井沢行きなのですが、正しくは2つの列車であったものを、1つの列車であると見間違えておりました。
大変申し訳ありませんでした。
正しくは、
下関(13:00)→大阪(4:54)→米原(7:24)
米原(7:30)→金沢(13:07)→直江津(17:50)→軽井沢(23:25)でした。
コメントを読ませていただいた後、念のため確認したところ、間違いに気づくことができました。
動画作成時は、すごい列車に出会えたなとうれしかったのですが、誤りであったことが判明し、残念な気持ちでもあります。
大垣は関ヶ原越えで補助機関車を付ける為、下りは全て停車してました。
鳥羽発宇野行があったのですか??経由はどこでしょう?
@@お猿さんちんぱん寺
経路的に参宮線〜紀勢東線(当時紀勢本線は全通していなかった)〜関西本線〜草津線or奈良線〜東海道本線〜山陽本線〜宇野線だったのではないかと思います。
櫻は昭和17年11月改正(24時間制、関門トンネル開通)で廃止ではなく第二種急行(第一種急行は特急列車のうち富士・燕・鴎が指定された)に指定されて博多を超えて鹿児島まで運転され、そして特急列車が廃止され急行列車も削減や運転区間短縮をされる中、昭和20年8月15日の終戦の詔勅が出された日、東京下関間を走る日本唯一の急行列車として命脈を保ちました。
現在とは名前が異なる駅、駅名についてに出ていた駅以外では
岩淵→富士川
神足→長岡京
西ノ宮→西宮
玉島→新倉敷
己斐→西広島
宮島→宮島口
周防富田→新南陽
小郡→新山口
長門一ノ宮→新下関
乗り換え列車の駅は
土岐津→土岐市
上井→倉吉(当時は倉吉線の後の打吹が倉吉)
出雲今市→出雲市
池田→川西池田
石見益田→益田
門司→門司港(現在の門司は当時は大里)
その他現在と異なるところ
·戸塚は横須賀線の電車のみ停車(現在の保土ヶ谷、東戸塚と同じ)
·豊川鉄道→飯田線
·大垣から下り新垂井経由の線は未開業。下りも垂井経由で補機必要。大垣停車は補機連結のため。
·中国鉄道→津山線
·(推測ですが)上りは瀬野に停車した(瀬野八の補機連結のため)
·麻里布-櫛ヶ浜は現在の岩徳線が山陽本線
·柳井線→麻里布-柳井-櫛ヶ浜(現在の山陽本線)
·宇部鉄道→宇部線
西大寺→東岡山もあるでよ、現在の赤穂線西大寺駅とだいぶ離れてるのに、なぜ西大寺?
瀬野ですがご推察の通り、全ての特急・急行が上りのみ停車となっています。徳山とか福山とか通過する様な特急でも、瀬野八はどうともならなかったんでしょうね。
70年代生まれで、正直国鉄の思い出は少ないですが、このチャンネルに出会って四日市から紀伊勝浦まで急行に乗車したことを思い出しました。亀山で進行方向が変わった?亀山でかすがと平安から切り離されたか、など記憶が曖昧です。
BGMと画面がよく合って、懐かしさや切なさを感じさせてくれるチャンネルですね。ありがとうございます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
また、うれしいお言葉ありがとうございます。
紀州5号のように、一部、亀山を経由して紀勢本線へと向かう列車もありましたね。当時は亀山駅が乗換駅として現在よりもにぎわっていたことがわかります。
いつもありがとうございます。
東京から下関まで19時間かかるものの、当時としては最速の列車、下関から先の連絡は鹿児島方面がこの列車、富士号が朝鮮や長崎へと連絡していたのでしょうね。ある意味役割分担がなされていたものと思います。
和食堂車は当時の時刻表の印どおり普段食べているメニューの延長線だったのかもしれませんが、列車内の一つのオアシスとしての機能もあったのかもしれませんね。お弁当や土瓶のお茶も。
小田原、熱海、大津には停車するものの深夜の山陽本線では福山や尾道を通過して糸崎だけの停車というのも驚きです。
速く行けるのはメリットがある一方で長距離を行くのに長時間停車がなくずっと座りっぱなしで今で言うエコノミークラス症候群がなかったのか気になるところではありますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在とは違い、設備も限られる中、それぞれの駅で緩急接続したり、他の線への乗り継ぎも考慮されたりしており、この時代にもスジを引く職人の努力が伝わってきました。
意外にも長時間停車がないことに驚きました。
乗車するなら是非寝台車で下関へと向かいたいなと思います。
@@tomoyankun さま
この時代でしたら列車に一人はボーイさんがいたことと思います。お客様のお世話、列車からの電報の送付、寝台のセットや解体等々。
さらには食堂車も時間制で係の方が車内を回りながら予約を取っていたそうです。
戦争で一時中断したものの戦後の国鉄のエース列車のお客様に対するサービスの原点はこの時代に築かれたものと思います。
動画お疲れ様です。
富士が国際特急なら櫻は大衆特急と棲み分けがされてました。
食堂車マークも和食堂車としてお椀と箸のマークが使われていた筈です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りで、櫻には和食堂車が連結されていました。誕生して数年は3等車主体の編成で、富士とは対照的でしたね。
普通青森ゆきは、後の特急白鳥ですね😸。
駅名が当時のものと言うだけでロマンがありますね。主なものでも鈴川→吉原、岩淵→富士川、中泉→磐田と言ったところでしょうか。そして、御油が後の愛知御津と言うのも面白いですね。御油と言えば名鉄名古屋本線の駅を連想します。
名古屋〜岐阜間の駅数は今もこの当時と全く変わっていませんね。
倉敷、福山、徳山 は通過で、 小田原、大垣、米原、大津、神戸、糸崎 は停車。 当時の 街の位置づけがなんとなく分かります。
5:13 にある米原20時46分→福井23時50分の列車ですが、大阪14時08分発というのは正しいでしょうか…?(大阪→米原の所要時間からして)
この列車時刻表見る限り米原始発に見える。 接続列車は大阪18:18~米原20:42着の名古屋行718列車に見える
太平洋戦争後に長崎・佐世保行のさくら号が復活したとき、一時期小田原駅に停車していたのを
思い出しました。昭和15年当時にも停車していたのですね。同じ特急列車でも富士は1等車連結、
櫻は2・3等車のみ、食堂車もそれぞれ洋定食、和定食と差がありましたね。資料でみたのですが、
特急列車名公募で当選した人に、記念品を贈呈していたようです。一体何を贈呈していたのでしょう。
興味があります。
「櫻」「富士」ほんと日本らしく特別急行列車に相応しい愛称ですよね。またいつか「富士」が復活して欲しいですね。新幹線以外でw
和食堂車ってどんな感じだったのかなぁ?洋食堂車や展望車を連結した「富士」や「燕」も良いけど編成は地味だったかもしれないけど庶民に愛されたのでしょうね。
和食堂車という名前ではありますが、和食だけでなくカレーやステーキやチキンカツなどもあったそうです。
「富士」はリニアで復活でしょうか。
大戸屋とロイホみたいな感じでは?
洋食堂車はフルコース、高級ホテルクラスのメニューだったようです。一等車を連結していましたからそれ相応のものが求められたのでしょう。相当味や素材に気を遣って調理していたのでしょうね。
食堂車の他には停車駅で窓越しに駅弁を買うという選択肢も。お茶は土瓶で。今でも中央線の小淵沢駅で売られています。
有名な列車ですが、走っていた時期は短いですね。愛知県三河地方は駅が大幅に増えた気がします。停車駅もいろいろありますね。福山通過で糸崎停車など時代を感じますね。麻里布なる駅(しかも岩国に代わって停車)は初めてみました。
岐阜発から大垣発までの時間が14分。今のしらさぎが9~10分なので、機関車重連の連結作業は手際よく為されていたのでしょう。また当時の美濃赤坂線はガソリン車で旅客を輸送していたかもしれません。
鉄道系RUclipsr「【聖戦】特別急行 櫻ヲ使ヰテ壱拾九時間半カケ下関ニ行ケリ」
用ヰテ が正しいのかな?
関西のあやつらがやりそうな…(笑)
宇野線は1935年に気動車が導入されているらしいですが、1940年でも蒸気機関車が走っていたんですね。
乗り換え列車にある鳥羽発の列車は客車で、当時宇野線は電化されていませんので、おそらく蒸気機関車だったと思います。
また当時は電車や気動車の列車でも、列車番号の末尾にMやDはついていなく、客車列車と同様に数字だけでした。
そのため列車番号だけでは客車、電車、気動車の判別はできないですね。
石油は戦闘機や艦船に使うことが優先され、鉄道はSLが一般的になっていたのでしょう。
この時代の前には国鉄にも都市近郊部にガソリンカー専用の停車駅がありましたが、軒並み休止とされたそうです。
昭和12年に米・英が経済制裁として日本への石油輸出をやめた事から、これ以降、ガソリンカーの運転取りやめが相次ぎ、再び蒸気機関車牽引に戻るパターンが多かったようです。
この時代背景は戦時中ですか
この時代の鉄道事情を知りたい方は
是非とも宮脇俊三氏の『時刻表昭和史』を読むのをおすすめします
それにしても福山尾道三原を通過して糸崎は停車とは
やはり糸崎が昔からの運行上の拠点なのを感じます
機関区があるからでしょう。
電化と非電化区間の境界である沼津駅の停車時間はたった4分。この間に電気機関車から蒸気機関車に付け替えていたとは、なかなか手際の良さだったろう。
その後、東京から長崎へ行く寝台特急になった。
この頃既に茅ヶ崎〜平塚間の馬入川鉄橋の上り線と下り線の間に今も残る、関東大震災で崩壊した旧鉄橋の橋桁の礎石は存在した😲
袖師駅があったころなんですね。
さくらは個人的に思い入れの深い列車です。
姫路発糸魚川行、名古屋発新潟行の普通列車があったことにびっくり。前者は東海道線で米原へ行き、米原から北陸本線というルート、後者は中央西線で塩尻まで出てそこから松本→長野へ行って信越本線に入るルートだったと思うのですが、こんな長距離列車が運用されていたとは知りませんですた。どんな列車だっただろうと想像したくなりますね。
戦後直ぐに、上郡発青森行もあったそうですよ〜。
@@vfcfha 宮脇俊三先生の『時刻表昭和史』に登場する普通列車「507列車」のことですね。「507」はのちの急行「日本海」の列車番号に引き継がれました。34時間7分もかけて上郡から青森まで乗り通した人いるんでしょうかねぇ。昔の鉄道はロマンありますわ。
これが戦後になって昭和30年代には、北陸本線泊駅発・米原経由・東海道本線島田駅(静岡県)行きとか言う列車も存在します。
失礼ながら始発も終着も大都市ではないこの列車、需要は何だったのでしょうね。
米原の普通福井行き115列車ってどこ通ったら大阪から米原まで6時間半もかかるんや?
この列車時刻表見る限り米原始発に見えるんだよなあ。 大阪~米原間は姫路16:23~大阪18:18~米原20:42の名古屋行普通718列車に見える
「さくら」か。
これも懐かしい寝台ですよね。
小田原にも停車してたのか!
これは初めて知りました。
鈴川…?
今の吉原ですかね???
この時代に小田原に特急が停車していたことに驚いております。拠点都市であるだけでなく大磯あたりに別荘を有しておられた方にも利用されていたのかもしれません。
当時と比べて湘南地域も大きく発展していることからサンライズが小田原に停車するとありがたいですが、夢物語なのでしょうね。
@@TSUYOS185
サンライズ…。
停車してほしいですよね…。
夢物語ですが…。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りで、鈴川駅は現在の吉原駅です。
当時の小田原は現在の半分以下の人口でありながら停車駅に選ばれていることは、私も驚きでした。
この時の下関は九州・韓国を結ぶ日本の玄関口として担ってましたからね。
東京に行く列車は花形として別格だったんでしょうね。
戦前の時刻表が残ってるという事は、満鉄の駅時刻表やあじあ号の時刻表もあったりするんですよね。
気になりますね。
栄光の「1レ」ですね。
大阪在住のため、やはり関西の鉄道事情には興味があるのですが、関西急電の停車駅の少なさに驚きました。まさに新快速のご先祖さまですね。
同じ京都〜下関間の普通列車でも、山陽本線経由(14時間26分)と呉線経由(24時間47分)で所要時間が全然違うんですね。この差はいったい…?
鳥羽発宇野行きなんて列車があったんですね。どういう需要があったのか、非常に興味深い列車です。
ともやんさまの先日の上野発の列車の動画にもありましたが、普通列車でもそこそこ速い列車(関東では準急。当時は料金不要。関西では快速度というもの)が設定されていました。
山陽本線の前者はその一つだったのかもしれません。さらに宇野から鳥羽はお伊勢さんにお参りする方のための列車であるだけでなく京阪神から鳥羽へは参宮急行(今の近鉄)の電車と競合していたこともあり速い列車として設定されていたようです。
さらに当時の列車は旅客だけでなく荷物や新聞や郵便を運搬する役割も有していました。そうした列車は各駅に停まっていく上に大きな駅では長時間停車するので時間の差が生じていたものと思います。
@@TSUYOS185 さん
実に詳細なご説明、ありがとうございます。
なるほど、同じ普通列車でも速いものからそうでないものまで、いろいろあったんですね。
そういえば、当時は伊勢神宮への遥拝を一般庶民にも求められていたのを思い出しました。国策としても伊勢神宮を重要視していたゆえに、このような列車が存在したのかもしれませんね。おそらく各地から伊勢に向かう列車があったのでしょうね。
JR鳥羽駅は、今では見る影もなくなりましたが、長編成に対応した長いホームが往時の賑わいをしのんでいるように感じます。
今走ってたら停車駅はどうなってたかな🤔
この時は共和駅は武豊線直通列車のみ停車、この年の11月に営業休止。笠寺駅はまだ未開業。新垂井線も未開業。岩国〜櫛ヶ浜間は岩徳線経由。関門海底隧道未開通と時代を感じます。
米原発軽井沢行き普通列車って、すげえ…
今だとありえない長距離の普通列車運用があるのがロマンある
昔走ってたJR西のシュプール号みたいですね。
神崎…?どこよ?って一瞬思ったけど尼崎駅は昔、神崎駅って言ってたのか…相生駅も那波駅になってる
尼崎駅は実在していて、実は福知山線の起点駅でありのちに尼崎港に改称され神崎が尼崎になりました
特急さくら号
戦前 東京〜下関
戦後 東京〜長崎・佐世保
新幹線 新大阪〜鹿児島中央
伝統のある名車で日本を代表する特急列車で絶大な人気を誇った
こうして戦前に運行された特急櫻が新幹線のさくら号として運行しているのは感慨深いものですね
はやぶさもそうですしね…もし西九州新幹線が全線繋がったら、今はかもめしかない種別も「あかつき」とか増えたりするんですかね~。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
歴史を知ると、現在の列車を見た時に込み上げる感覚が変わりますね。
尼崎も神崎だったんですね、麻里布なんてのもカッコいい名前だったのに。
父の故郷が五島だったので、72年当時たしか16:30発?のさくらに東京長崎まで
3ねん連続で乗ったのを憶えてます、いま考えると貴重な体験でした。
尼崎港線の尼崎駅を内部用語でドテカンと呼ぶのはこのためだそうです。土手の上の神崎駅。
沼津発の御殿場線はすべて東京行きだったんですね。
名古屋発新潟行き…鈍行だけど行き先からして急行「赤倉」の遠いご先祖だろうか?
米原駅の急行青森行・急行上野行きは多分特急「白鳥」の遠いご先祖ですね。
まだこの頃は伊勢神宮など神社への参拝旅行は奨励されていた時代であるので、宇野行きに鳥羽始発があるのも納得です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
国鉄時代につながっていく列車が多くあり、いろいろと想像してしまいますね。
調べてみましたら、参拝旅行という名目で、通常の観光を行っている例も少なくなかったようですね。旅行のニーズは当時も多かったことがわかりますね。
宇野線「801ㇾ」の始発駅「鳥羽」って参宮線の「鳥羽」なのかな?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りで、その鳥羽駅発です。すごいですよね。
東京横浜26分!とか東海道線は早いけど山陽本線に入ってから速度が落ちているように見える
電化していないですから。
時代が感じられて👍
共和も笠寺もまだ無かったんだな
金山も尾頭橋もね。
この頃だったら座席車メインだったように思われますね。もちろん乗り継ぎの夜行普通列車も座席車だけだったように思われます。特急だったらもっとも高嶺(値)の花で、普通列車に乗っていた人が多かったのではなかったでしょうか...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
木造客車も、まだまだ活躍している時代ですね。列車の本数が少ない中、各列車は混雑していたのだろうかと想像します。
まさか、小田原停車があったとは。
さくらとは別モンかな?
戦前の特別急行列車の愛称はすべて漢字でした。
富士、櫻、燕、鷗の4種類しかありませんでした。
この時代は下関から朝鮮行きのフェリーに乗ってそこから満州方面へ旅行とかも出来たんだろうな
福山、尾道、三原通過して糸崎停車。盛者必衰がすごい。
深夜帯でしたので都市の規模というより運行上の拠点として糸崎だけ停車していたのでしょうね。そこで機関士の方たちが交代していたようです。
「昔の特急は停車駅が少ない」って言うけど平成のブルートレインより停車駅多いのは意外。
5:10 米原9時47分発の上野行きは確か池田(福知山線川西池田)始発だったはず。史上有数の珍経路列車です。
下関とかへ行く長距離の「櫻」「富士」は東海道本線内が現在の「こだま」タイプですが、別途東京発神戸行きの「燕」「鴎」があって、こちらは若干「のぞみ」タイプの停車駅になってます。
池田6:28発となっていますね。 池田発時点では普通412列車で大阪で普通604列車に変わっているようです
日本の鉄道は新幹線の高速化やリニアに固執しすぎて風情がなくなった。だからといって露骨にリニア建設を妨害する川勝平太静岡県知事の言動や態度はポアに値するが。